祖父が自分の人生をもって私に教えてくれたもの
目次
大激怒!
我が家の歴史の中でこんなことがありました。戦後間もない頃です、私のおば(祖父の娘)は、ある町工場の社長の男性と結婚します
将来的に私のおじとなるその人は、非常にビジネスの才覚があり、一代で会社を町工場から上場企業に匹敵するレベルまで大きくします
最終的にその会社は、ソニーや松下電器に商品を納める、大手部品メーカーになります
自宅は、城南の超高級住宅地、なんとお隣は、後の総理大臣のお屋敷でした。おじは、髭を生やしており、見かけはまさに社長シリーズの森繁久彌さんのような人でした(かえって、わかりにくいですか?)
しかし、そのおじファミリーに不幸が訪れます。おじが40後半、脳梗塞で急死してしまうのです、昭和40年代の終わりのころのことです。会社は、まずはおばが引き継ぎ、後にいとこが引き継ぐことになります
そして、それから20年後ぐらいのバブルのころ、いつもの我が家のお正月の親戚の集まりです。社長となったいとこの自慢話の始まりです。いとこは私より10歳すこし年上で、その時、30代半ばでした
「実はさあ、今度、上海に工場を建てるんだよ、それでもう忙しくって、忙しくて、まあ、でも飛行機は会社の経費でビジネスクラスだから楽だけどね」
この話に、やはり自営業のおじが反応します
「おまえ、自分の会社がどういう状況かわかってるのか?赤字会社だろ、社長がビジネスクラス乗っている場合か?じいちゃんに借金もしているそうじゃないか」
いとこが答えます
「あー、大丈夫だよ、上海に工場建てれば全部片付くさ、心配ないよ」
わたしは、とっさに、危ない!と思い、祖父の方を見ました。祖父は、お座敷の上座に座って、じっと話を聞いていますしたが、むっくと仁王立ちになり、
ばかもの!出ていけ!!
と大声でどなりました
その後どうなったか、記憶が定かではないのですが、怖くなって自分も逃げ出してしまった気がします
やなこった やなこった
そして、バブルが崩壊します。上海の工場の立ち上げに失敗し、おばといとこの会社が経営危機に陥ります。かわいい娘と孫のために、祖父も相当な支援をしていたようですが、負のスパイラルをとめることはできなかったようです
おばといとこが神妙な顔つきで、我が家にやってきました
おばが祖父に向かっていいます
お父さん、お願い、最後の頼みだから
こんだけ不動産があるんだから
助けて!
祖父はしばらく沈黙したあと、ポツリと言いました
やなこった、やなこった・・・
うつむく祖父の背中が寂しそうでした。祖父がすべての不動産を投げ売れば、自分の娘を助けることができたかもしれませんが、祖父はそれをしませんでした
結局、いとこの会社は倒産、事業はライバル会社に買収され、創業家家族は経営から身をひくことになりました。当然、城南の超高級住宅地に建つ豪邸は、人手に渡りました
私が、そのいとこと会ったのはそれが最後です。自己破産したいとこは、奥さんの実家(地方)に、身を寄せて暮らしているそうです
199X年〇×月の日経ビジネス「敗軍の将、兵を語る」にいとこが寄稿していました
久しぶりにネットでバックナンバーを調べてみると
元○X社長、〇〇〇〇氏
老舗部品メーカー、松下、ソニーなど家電メーカーの海外生産移転からとり残された。経営の甘さで銀行の信頼を失墜。事業は○△に継承された
と、抄録がありました
親戚の中には、「おじいちゃん、冷たいよね」と陰口を叩く人もいましたが、少なくとも私は、祖父は間違っていなかったと思っています
◇
人生とは?
祖父とは、私が生まれてから、祖父が亡くなるまで同じ一つの家で暮らしてきましたので、いろいろんな話をした大の仲良しでした
ある時、社会人になったばかりの私は、何か心配事があり、祖父に相談したことがありました。悩んでいる孫への祖父の答えは
どうせ人生、死ぬまでの暇つぶしだろう
だったら楽しい暇つぶしの方がいいぞ
でした
おじいちゃん!
それじゃ、なんだかわかんないよ!
たしかに、祖父は、経済的自由を早々と獲得し、自治会でボランティア、ゲートボール、老人会の幹事と、ある意味、楽しく遊んで暮らしていました
人生=死ぬまでの暇つぶし?
自分がそこまで達観できるか自信はないです
終わりに
おばといとこの会社の事件のあと、私は祖父の変化に気が付きました
祖父は特に持病もなく、90歳を超えても歯が全部あるなど、非常に元気な人でした。自治会長を引退したあとも、ゲートボールチームのキャプテンや老人会の幹事をやっており、元気な晩年を過ごしていました。私も祖父は絶対に100歳以上生きると信じていました
しかし、例の事件のあと、祖父は、どうも家に引きこもりがちになり、テレビばかりを見て過ごすようになりました。そして、ある日、残念なことに夏風邪をひき肺炎になり、入院してわずか一週間でなくなります。あの事件から2年後のことです
あの事件のことについて、祖父と直接話しをしたことはありませんが、祖父の生活の変化を見れば、超高齢の祖父にとってもあの事件の衝撃は大きかったのだと想像できます。あの事件の疲れが出たのかもしれません。とても残念です
不動産投資は、最後に売るまでいい投資か、悪い投資かわからないといいますが、最後に売って終了させたからと言って、それがいい投資だったか、悪い投資だったか、単純に答えが出せるものでしょうか?
不動産を手に入れれば、金額以上の可能性を手に入れることもできますが、それを売れば、同時に何か別な物を失う可能性もあります。祖父の葛藤は容易に想像できました
祖父の人生の大半は不動産のおかげでとても幸せなものでした。しかし、沢山の不動産を持っていたがために、最期の最期に苦渋の決断をしなければいけないという人生最大の試練を味わうこととなったのでした。人生の終わりが、不動産投資の終わりと考えると、祖父の不動産投資は、百点満点であったとは言い切れないのかもしれません
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この写真は、昭和22年の城南の我が家の航空写真です。私が生まれる約20年ほど前のものです
中央ちょっと左の南西の角地が、父が農家から借り受けた330坪の借地です。すでにいくつかの建物が建っているようです
現在は、立派な住宅地ですが、城南地区も戦後間もないころは、こんな感じだったようです
祖父の残した不動産はここだけではありませんが、祖父が亡くなった後、父を含めた5人姉弟で仲良く相続しました。もちろん、自分が会長を務めていた会社が倒産するという悲劇を味わった私のおばも、それなりの不動産を相続し、その後は裕福な生活をしています
あの時、祖父がおばを助けていたら、その後、我々一族がどうなっていたのでしょうか?それは誰にもわからないことです。
私も含めて、不動産投資の世界に足を踏み入れてしまった皆さん、我々と我々の不動産にはどんな最期が待っているのでしょうね?
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戦前、名古屋から駆け落ちで東京にやってきた20代の青年であった私の祖父は、こんな形で
人生という長くて楽しい暇つぶし
を終了したのでした
完
「サラリーマン大家道」は、私の考え方と行動の実践編に移りたいと思います
問題児であった2代目大家の父の話は少しあとになると思います
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました