私の尊敬する祖父の話
目次
大家が家業 大家が家業
私が不動産投資を始めたきっかけは、「大家の家」に生まれて、小さいころから「大家としての英才教育」を受けてきたため、その意識が高かったからだと思います
また、「DNA」の影響もあると思います
祖父の5人の子供、13人の孫のうち、男性10人の中で「サラリーマンは私だけ」で、残りはみんな「自営業」です
例えば、正月に我が家に親戚が集まると、そこは「社長だらけ」になります
女性の嫁ぎ先も「自営業」が多かったです
ただし、社長だからといって、みんな金持ちかというとそうではありませんが、「金持ち父さん、貧乏父さん」的に言えば、「金持ち父さん=善」、「貧乏父さん=悪」が常識の話ばかりを、小さいころから、かなり聞かされて育ちました
ただ、いわゆる「一攫千金やギャンブル」の話が一切なかったのは、そういうことが大嫌いな祖父の影響だと思います
努力もせずに、上手く儲けるだけの話をすれば、祖父から一発で即「退場!」です
そんな中で、私がしっかりと大学院まで行き、大手企業に入る道に進んだのは、私の母の家系が典型的な「貧乏父さん」家系であり、母の教育があったからです
さて、本題に戻りますが、我が家は大家業をやっていましたが、いわゆる地主ではないので、「先祖代々の土地を継承していくこと」が、家族のテーマにはなっていません
では、どうして我が家が「大家業」を始めたたかというと、私の祖父が「不動産投資」をし、一代でアパートや貸家、駐車場などの「不動産資産」を築き上げたからです
地主という意識がない一つの証拠は、「二代目の大家であった父」は、不動産経営にあまり興味がなく、祖父から相続した不動産を気軽に売って、自分の欲しいものを買ったり、自分の借金を返済したりしていました
最悪なのは、母が亡くなると、どこからか父より一回り以上も若い女性を連れてきて、家族に相談せず、「勝手に再婚」してしまいました(「城南のドンファン?」うーーん、資産家と若い女性の組み合わせ、いやな予感がしますね)
ということで、まずは「祖父」がどのような人であったかお話したいと思います
地元のボス
祖父はいわゆる「地元のボス」的な存在で、見かけも頭つるつる、明治生まれにしては大柄な体格で威圧感がありました
近所の悪ガキどもを大声でしかることもあり、いわゆる町内のお目付け役の「頑固おやじ的」な存在でした
実際、20年以上地元の自治会長を務め、東京都の自治会連合の代表もし、「リーダーシップを発揮する」ことが得意な人でした
元々は広島生まれ、名古屋育ちの人でしたが、戦前に「東京の城南地区」に引っ越してきたそうです
理由はわかりませんが、祖父と祖母は「駆け落ち」で、戦前、名古屋から東京に二人で「逃避行」でやってきたようです
バイタリティー旺盛な祖父は、東京でいろいろな商売に手を出したそうです
一番派手にやったのは「うなぎやすっぽんの養殖」で、城南地区の池で、輸入したうなぎやすっぽんを、大きくして、新橋の料亭に卸していたそうです
私も小さいころ、よく近所のおばあちゃんから「あー、すっぽん屋のお坊ちゃんね」なんてよく言われましたが、「すっぽん屋」といわれるのはちょっとイヤでした
そんな地域で知らない人のいない「祖父」をもった私でしたので、町内の「知らない人」や学校の「校長先生」から声をかけられたりすることも、少なくありませんでした
不動産投資家の祖父 不動産投資家の祖父
それはさておき、祖父が「不動産投資」を始めたのは、東京が焼け野原になった「戦後」間もないころでした
祖父はその時、「30代後半」でした
「東京が焼け野原」といっても、当時の城南地区は、畑や水田の中に家や工場や学校などがポツリポツリとあるところだったようです
当然、「投資用のアパートや賃貸住宅」が売っているわけは、ありません
あるのは「空地」ばかりです
しかし、戦争で家を失った人や家族は山のようにいて、「住宅の需要」は非常に高かったはずです
そこで祖父が考えたのは、地主から「土地を借り」、「アパートや賃貸住宅を建築」し、それを「貸し出す」というビジネスです
当時、地主の多くは地元の「農家」です
祖父は農家の「地主」と交渉し、土地を借り、アパートや賃貸住宅の建築を始めます
資金は、「自己資金」と地元の「信用金庫からの借入れ」だったそうです
当然のことのように、このビジネスは大ヒットし、祖父は一代で「大きな不動産資産」を築いたのでした
よく、我々家族のことを「戦後のどさくさにまぎれて金持ちになった」と陰口をたたく人がいましたが、投資できるなら、自分たちもやればよかっただけの話です
出来もしなかったのによく言うよなあと思っていました
この投資のポイント この投資のポイント
さて、この祖父の投資のポイントは2つです
1.農家の地主から土地を借りることができたこと
2.信用金庫がお金を貸してくれたこと
では、なぜできたのでしょう?
1についてですが、農家にとって、戦後の東京の焼け野原で、農業を再開するにしても、少しでも「現金収入」が入るなら、一部の土地を貸すのは悪い話ではなかったのだと思います
しかし、農家の人は、「旧法借地権」の恐ろしさに気が付いていませんでした
目先の現金欲しさに、「割安な地代で土地を貸し出した」とたん、その土地は、半永久的に返ってこなくなってしまったのです
まして、それが「東京の城南地区」という、その後の高度成長期に高騰する土地であったなら、貸した方は大損、借りた方は大儲けとなったわけです
実際、借地に建っていた祖父のアパートが火事になり、地主から「借地の返還訴訟」を起こされたこともあります
しかし、祖父は弁護士もつけずに、裁判所に行き、堂々と裁判を戦って「勝訴」し、アパートを建て直しました
そして、さらに祖父に「幸運」がやってきます
土地が徐々に値上がってきたころ、一部の地主から「底地の売却」の申し出がありました
「地主たち」の土地が返ってこないなら、「高い時に売ってしまおう」という考えでしょう
さて、底地の買取に「信用金庫」が融資をしてくれるか?
70年前も、現在も、理屈は一緒でしょう
要は、
収益物件で利益が出ているか?
それだけです
もちろん、「土地の担保価値」も必要ですが、土地が値上がりしている局面において、それを心配する必要はないでしょう
しかし、最初のアパートや貸家はいわゆる「バラック」でした
若い人は「バラック」を知らないかもしれませんが、外壁も屋根も「トタン」でできている建物で、当然、壁内に断熱材なんて、入っていません
今でいえば、「倉庫」のような家です
「戦後の住宅不足」の状況では、不満の言えるような状況ではなかったので問題なく「満室経営」ができました
しかし、祖父は、ある時期から順番に、借り入れをして、「普通の木造住宅」へと自分の物件を建て直していきました
ただ、私の小さいころ「昭和40年代」にはまだ祖父の「バラックの貸家」は一部残っていたのを記憶しています
そして、さすがの祖父も、これら一連の「借り入れ」のおかげで、この後、とても「苦しむ」こととなるのです
その点に理由ついては、次回、祖父が私に残してくれた「教え」とともにお話ししたいと思います
以上、私の尊敬する「祖父」が、一代で「大家業」を始めた話でした
「サラリーマン大家道」まだまだ続きます
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました